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マンスリーイングリッシュサロン 2026年9月 カナダ、ケベック州

公開日:2026年09月07日 最終更新日:2026年09月10日

 

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今回の講師はカナダ、ケベック州出身の  Jung Nietzsche さん(以下、ニーチェさん)です。

ニーチェさんはヤマサ日本語学校で日本語の勉強をしています。

また我々人材育成部会ボランティアメンバーです。

今回は、カナダとケベックの文化の衝突について講演をして下さいました。

 

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ニーチェさんはケベック在住時いくつかの仕事をしました。国際貿易会社を立ち上げたりも

しましたが、特筆すべきはカナダ空軍での経験です。日本にも自衛隊はありますが厳密には

陸軍や空軍ではありません。上の写真は約10年前のニーチェさんです。

ライフルの実弾射撃の経験もあります。

 

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ニーチェさんの名前を見て、白人のカナダ人を想像した人もいるでしょう。

ですが、ニーチェさんの顔はアジア人に見えます。ニーチェさんの先祖はイヌイットです。

日本にもアイヌがいるのと似た状況です。

2.5万年から4.5万年前、氷河期で地球が凍りついていた頃、イヌイットの先祖は

アリューシャン列島とアラスカを経由してカナダ北部へ移動してきました。

イヌイットが住むイグルー(左上)は一時的、季節的な住居。恒久住宅は鯨の骨と

アザラシの皮で作ります。

 

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ニーチェさんの出身地ドロボーは人口約1.4万人の小さな町。人口密度は40人未満/㎢。岡崎は

975人、東京は6000人以上。ドロボーの主要産業は、林業、製紙業そしてブルーベリー栽培です。

ブルーベリーの国際的首都と呼ぶことが許されています。

 

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中央下はニーチェさんが3年間働いていた製紙工場。右下はクリスマスの装飾風景。

製紙工場の規模は大きく建物内の移動には自転車が必要。端から端まで15分かかります。

 

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ニーチェさんの趣味は写真撮影。上の写真は全てニーチェさんの撮影によるもの。

 

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次はカナダとケベックの簡単な歴史。1535年にフランス人ジャック・カルティエが2回目の

航海で先住民と会い、集落という意味の「カナダ」という言葉を聞いた。

彼はこの場所全体を「カナダ」と思い、これが名前の由来となった。

彼はフランスに戻り、この土地を国王の領有にしたと伝えた。

 

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1608年にフランス国王はシャムエル・ド・シャンブランを派遣した。彼がケベック市の

創設者。ケベックには彼の像があるが、実際には誰も彼の顔を知らず想像で作られた。

ケベックという言葉は先住民の言葉で「川が狭くなる場所」をさす。

 

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1750年後半にはフランスとイギリスが領有権争いをした。

 

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1759年には「アブラハム平原の戦い」が勃発し、イギリス軍はフランス軍と先住民族の

同盟を破った。

 

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アブラハム平原戦場跡は公園として現存している。

 

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1971年アメリカ独立戦争の後、イギリスに忠誠を誓うアメリカ人約1万人がカナダへ

移住した。イギリスはフランスとの摩擦を避けるべく、カナダをアッパー(イギリス系)

とロアー(フランス系)に分割した。

フランス系多数派は統治の枠組みの中で制度、法律、組織を自分たちでもつことになった。

そしてフランス系住民はこの自治を利用して1837年に反乱を起こした。

 

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1840年から1841年にイギリスはアッパーカナダとロアーカナダを再び統合することを

決めた。フランス語話者が多いにもかかわらず、議会ではフランス語話者と英語話者は

同数とされた。目的はフランス語話者を封じ込めようとするものであったが、予想外に

フランス語話者がイギリスに協力する動きがでて、「責任政府」と呼ばれる制度が導入

された。

 

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この制度は1867年まで続き、イギリスはカナダに「ドミニオン」という地位を与えた。

ここからカナダ・ナショナリズムが台頭し、イギリスがカナダに内政自治を認めた。

しかし、外交問題については依然としてイギリスが決定した。

 

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1960年台に「静かな革命」が起きた。これまでケベックの経済状況はかなり遅れていた。

フランス話者の多くは農民であり、技術系企業はイギリス系の人々に所有されていた。

英語話者の経済は発展していた。フランス系住民は大きな不公平感を持ち、「静かな革命」

が起きた。その中の大きなことは、水力発電会社ハイドロ・ケベックの設立。

イギリス系住民が所有していた小さな電力会社を買収し、一つの国営電力会社へと統合。

このハイドロ・ケベックを通じて、ケベック・ナショナリズムが確立された。

 

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この写真は約3億年以上前にできたと思われる衝突クレーターです。このクレーターを通って

川が流れており、その川の途中にあるのがManic-5(ダニエル-ジョンソンダム)です。

 

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Manic-5ダム全体のミニチュア模型です。

この建造物の実際の規模を表すのは非常に難しい。

 

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この建造物の高さは250mあります。名古屋のテレビ搭の高さは180mです。

 

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1982年、カナダは完全な主権を獲得した。カナダは自国の憲法を管理する権限を

与えられた。カナダは「権利と自由の憲章」を制定したが、ケベックはこれに同意

しなかった。憲法にも同意していない。

 

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現在のカナダ。人口約4100万人。そのうちケベックは約850万人で全体の20%。

カナダのGDPは2兆米ドルだが、一人当たりのGDPは米国のミシシッピ州を除く49州より低い。

愛知県と同等。愛知県は日本で2番目に高い。

 

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ケベックは州であるが、national(国民的・国家的)という言葉を使うのが大好き。

州議会は国民議会、州立公園は国立公園と呼ばれます。

 

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国民の祝日と呼ばれるサン・ジャン・バティスト祭がある。

人々はケベック独自の国民的アイデンティティを祝います。

 

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フランス語話者の状況改善のために、ルイ・ジョセフ・パピノーがパトリオット党を

設立し、イギリス政府と交渉したが、イギリス政府はそれを無視。パトリオット党は

武器を取り1837年に反乱を起こした。しかし同年に敗北。

中央下の旗は再び独立しようと政府に訴える人々が掲げる旗。

 

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ケベックの人々はカナダ政府やイギリス政府に引きずられることを望まなかった。

1982年に憲法にも同意しなかった。ケベックの主権主義者たちは、憲法制定をめぐる

出来事をナチス・ドイツの「長いナイフの夜」に例えるほどの裏切りと見なした。

 

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1968年にケベック党が設立され、ケベックがカナダから独立する運動が始まった。

1980年には国民投票が行われ、投票率は85%以上。賛成40%、反対60%だった。

1995年には再び国民投票が行われ、投票率は驚異的93.5%。賛成49.4%、反対50.6%。

差はわずか1%。

 

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ケベックの人口は約700万人。そのうちフランス語話者は約80%。その60%は賛成。

英語話者および英語でもフランス語でもない人々の95%は反対に投票。

 

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1970年ケベック開放戦線という組織がテロ事件を起こした。当時の首相ピエール・トルドーは

戦時措置法を発動し、警察に非常に大きな裁量権を与え、ほぼ誰でも様々な理由で

逮捕可能となった。実際に警察はそれを行った。逮捕された人々の多くは主権主義者、

あるいは主権主義運動の指導者であった。

 

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ケベックでは1977年にフランス語を公用語とすることが決まった。

公共の標識についてはフランス語が優勢でなければならない。政府機関、医療や教育は

非常に限られた例外を除いてフランス語で行われなければならない。

ケベックの公教育制度は大部分がフランス語による。

これらに関する取り締まりも実際に行われている。

 

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講演のあとニーチェさんは多くの質問に答えてくださいました。

中にはアメリカやトランプ大統領に触れる微妙なものもありましたが、可能な範囲で

熱心に回答いただきました。ニーチェさんありがとうございました。

 

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聴講の皆さん、参加ありがとうございました。

             (ホームページ担当 人材育成部会ボランティア 中野一男)

 

 

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