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マンスリー・イングリッシュ・サロン 2020/7 USA & Japanese immigration

公開日:2020年07月19日 最終更新日:2023年01月05日

タイトル マンスリー・イングリッシュ・サロン 2020/7 USA & Japanese immigration

詳細

今回の講師はYAMASA言語学院で日本語を学んでいるGillianさんです。
彼女はアメリカ、ロサンジェルスから来られていますが、母方の祖父母は沖縄からハワイに移住された方です。
アメリカ全般にわたって説明いただいたあと、
戦前、戦中、戦後の米国における日系アメリカ人の実態も含めて講義をいただきました。知らないことが多く大変勉強になりました。

最初のテーマはAmerica’s Diverse Landscapes 56℃のデスバレー、ジョシュアツリー、テキサス西部、モンタナの氷河、ウィスコンシン、カンザス、フロリダなど変化に富んだ風景を紹介いただきました。

次にMust Visit Cities
として、LA、シアトル、NY、ボストン、シカゴ、ニューオリンズ、そしてアラスカのジュノーを挙げてもらいました。やはりロスのリトルトーキョーと日系博物館に行きたい。

次にThe Wonders of Nature
として地震、トルネード、サイクロン、砂嵐、山火事、洪水、火山。中でも太平洋プレートが北米プレートにもぐりこむサンアドレアス断層の規模のでかさにびっくり。

多くの野生動物

そして米国の建国、13州

南北戦争での北軍の勝利

ここからは日本人の移民の歴史。
1868年に幕府とハワイ王との契約により153人がサトウキビ畑の労働者として渡航。その後明治政府および民間機関による移住の斡旋がなされた。

日系人が社会に進出しはじめたことによる排斥運動。「我が校には日本人の生徒は要らない。」「アジア人を帰化させてはならないない。」などと書かれた市長が署名した集会のチラシ。1906年の事。

1941年12月の日米開戦に伴い、1942年にルーズベルト大統領から日系アメリカ人に対し収容所へ移送指示が出された。

全米に17箇所配置された日系アメリカ人の強制収容所。
生活を営んでいた土地では「出て行け!」、「ここでは君たちは夕日を拝むことはできない。」などと。

財産を没収され、トランクひとつで列車に乗せられ日系アメリカ人強制収容所へ移送される。

日系アメリカ人の広大な強制収容所は僻地に建てられ、外への移動できないよう有刺鉄線および見張りが立っていた。

収容所の中では理髪店、相撲大会、ダンスホール、食堂、七夕まつりなども開かれていたのですね。無邪気で明るい子どもの笑顔に元気づけられたことでしょう。

1980年にカーター大統領は「戦時における民間人の転住・抑留に関する委員会」を設置し、レーガン大統領下の1988年には、合衆国議会において戦時中の強制収容に対する謝罪と補償が制定され、存命中の者に一人当たり20,000ドルの賠償金を支払うことが決定した。

左上はリトルトーキョーにある全米日系人博物館。「博物館は確かに日系アメリカ人によって建てられました。しかし同様の体験を共有するほかのアメリカ人たちも、その建設に参加しました。この博物館はアメリカ人よって立てられたアメリカの博物館です。そこに意義があるのです」上院議員 ダニエル・イノウエ。慰霊塔は加州マンザナ国定史跡。

母方のお爺ちゃんお婆ちゃんとその家族。若い女性はGillianさんのママ。

ママの若い頃、美人ですね。

自慢の両親とGillian姉妹。

おばあちゃんと両親そして姉妹の家族写真。

今日は面対なのでアクリル板で区切り、講師はフェースシールドを、聴衆はマスクでコロナの感染防止対策をしました。

コロナ対策で窓を開放し、前後左右の席を空けています。

Gillianさん、しっかり準備していただきありがとうございました。
大変好評でした。

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