20231011秋の日帰り研修で高天神城などを訪問
公開日:2023年10月14日 最終更新日:2024年02月09日
秋の日帰り研修は10月11日(水)に"勝頼x家康・・遠江の戦い"をテーマに牧野城(諏訪原城)、高天神城、横須賀城、撰要寺を訪問。朝7:20に35人の参加者を乗せて東岡崎駅南口を名鉄観光バスで出発。車中で嶋村会長の挨拶に続いて講師の奥田さん、加藤さんに今日の見どころ及び遠江における勝頼・家康の戦いの攻防について模式図を用いて説明を受ける。
予定通り9:30に最初の訪問地の国史跡、牧野城(諏訪原城落城後家康が牧野城に改名)に到着、難易度に応じABC班に分かれBC班は奥田講師を先導にこの城の特徴である本曲輪と二の曲輪の3つの丸馬出(B班)、5つの丸馬出(C班)を廻る。なかでも中馬出は家康が指揮して築いたものでその大きさが実感できた。奥田講師のお考えではこの中馬出の経験を岡崎城に今も残る清海堀にいかしたとの事。本曲輪から眼下に大井川を望み、最後に全員がビジターセンターを見学後出発。
少し早いお昼ご飯を掛川城近くの”こだわりっぱ”でいただいたあと高天神城へ。車中で加藤講師から武田・今川・徳川の三つ巴の抗争の経緯について説明があった。到着後ここでも難易度に応じBC班は奥田講師を先導に搦手からの急坂を(健脚者はスイスイ、運動不足に人は汗をかきながらゆっくり)上り、井戸曲輪から本丸へ。B班はここで分かれて大河内石窟を通って下り、C班は更に高天神社(西の丸)・堂の上曲輪へ行ってから下る、A班は加藤講師により高天神城をバスで周回。この城を力ずくで攻略する事は難しく、家康が採った兵糧攻めによる攻略に参加者一同ガッテン。戦国時代には鎧具足刀剣を着けて上り下りしたことを思うと大変だったろうと気づかってしまう。(掛川市作成戦国時代の想像図を添付)
次の横須賀城への車中、奥田講師から右手に見える矢柄神社について~戦国時代はこの辺りは海辺であり当時の灯台跡が今も矢柄神社に残っている~と説明があった。大須賀康高が横須賀城築城に際して天竜川から運んだとされる玉石積みの石垣の前で奥田講師の説明ののち記念写真を撮り、めいめいに城内を散策。城から間近かに見える遠州灘には風力発電のプロペラが並んでいた。
最後の訪問地は浄土宗景光山撰要寺。大須賀康高が1581年に開創。法然の”撰拓本願念仏集”の撰と源信の”往生要集”の要をとって名付けられた。境内にある大須賀氏の2基および本多豊後守(康重・康紀・忠利)の3基の墓碑を幹事に付いて参詣。関ヶ原役後の初代岡崎藩主本多豊後守家が横須賀城に転封になった際に岡崎源空寺にあった藩主をはじめ11基の墓を掘り起こして船で運んだとされる。4代利長が改易、のち許されて5万石から1万石に減封となり出羽村山に転封されたことにより家臣の多くが横須賀で帰農したのではないかと思われる。撰要寺には本多家関連の墓が112基を数える。