20240605春の日帰り研修~蒲郡の戦国領主ー竹谷松平氏と鵜殿氏ー
公開日:2024年06月07日 最終更新日:2024年06月07日
令和6年6月5日水曜日、梅雨入り前の初夏の一日を蒲郡の戦国領主史跡めぐり。参加者は講師の奥田敏春さんを含め31人。
嶋村会長のあいさつのあと10:10にJR三河塩津駅を出発。(9:40出発の予定であったがJR東海道線沿線でショベルカーを積んだトラックが橋げたに衝突する事故が起きた影響で列車遅延し30分遅れで出発)
最初の目的地は松平3代目信光の長男守家を祖とする竹谷(たけのや)松平家4代の墓所。奥田講師によれば信光が力ずくで良港のあるこの地奪ったのではなく買得したものであるとのこと。信光は在地の豪族というよりも京都とのコネクションを持った商才のあるいわば総合商社的な動きをしていたそうだ。
スケジュールの関係で竹谷松平家の菩提寺である全保寺訪問を割愛、竹谷城は堀切のみ見学して、上ノ郷城へ向かう。途中蒲郡市西部公民館で小休憩、蒲郡市の史跡に関する資料を頂戴する。
上ノ郷城ではNHKのカメラマンが既に待機、嶋村会長および奥田講師の説明の模様を取材。放送日は別途案内があるとの事。
城主の鵜殿氏は紀伊熊野の鵜殿村を出自とする一族で上ノ郷城主を中心に下ノ郷、柏原、不相、牟呂に展開していた。
ご存じのように永禄5年(1562)に松平元康によって落城、のち上ノ郷城は久松俊勝に与えられる。
下山して、麓にある赤日子神社で昼食をいただいたあと、天桂院(旗本竹谷松平家墓所)に向かう。天桂院は於大の方の娘、家康の異父妹で吉田藩主竹谷松平家清に嫁ぎ忠清を産む。のち忠清が急死し弟清昌が西郡五千石を与えられ旗本竹谷松平家を興す。ここには蒲郡市出身の横綱玉ノ海の墓碑がありました。
次の目的地は下ノ郷鵜殿氏の菩提寺法華宗長存寺
次は蒲形陣屋跡、竹谷松平氏の居館があったところで今もご子孫が住んでいらっしゃる。ご子孫にも参加いただき少し説明をいただきました。
奥の小山はもともと物見櫓があったと思われるが、平和な世の中になった江戸時代には前方に池を配置し築山となったと奥田講師。
今日の行程も蒲郡駅でひとまず終え、有志9人ほどで蒲郡博物館まで15分ほど歩く。入り口には蒲形陣屋にあった竹谷松平家の高麗門が移築されていました。
講師の奥田さん、関係者の皆さまご苦労さまでした。