マンスリーイングリッシュサロン 2024年10月 アメリカ(スケートボード)
今回の講師はアメリカ出身の Dallas Aaron Williams さん(以下、ダラスさん)です。
今回はアメリカや出身地についての説明ではなく、スケートボードに特化したユニークなプレゼンテーション
でした。 ダラスさん自身のスケートボードを持参し現物を示しての説明をして下さいました。
また、ダラスさんが講演をし、聴講者が聞くだけではなく、質疑を交えて会話的な講演をして下さいました。
ダラスさんはフロリダ州フォートローダーデール市出身。フォートローダーデールはマイアミの北、から車で30分
ぐらいの位置にあります。
日本に来て6年、英会話教室の先生をしています。興味のあることはハイキング、スケートボード、エクササイズ、
日本語の勉強。スパイシーフードが好きでキムチはほぼ毎日食べ、すしとワサビも好きだそうです。
ダラスさんが子供時代、スケートボードで遊んでいたときに石にひっかかってころんだため、ダラスさんのお父さんは
そのスケートボードを捨ててしまったそうです。子供の保険に入っていなかったからだそうです。
その後、スケートボードをしていなかったのですが、日本へ来て1年後にスケートボードを始めました。
スケートボードが禁止になる前には、岐阜のこがね公園では多くの人がスケートボードをしていました。
スケートボードには多くの種類があります。長いもの、短いもの色々ありますが、左写真中央が現在の一般的なもの。
スケートボードの構成パーツは、ベアリング、車輪、トラックス、デッキ、グリップテープ。
ベアリングはスムーズな車輪の回転のために重要、グリップテープはボードの上で靴が滑らないようにする。
車輪には硬いもの、柔らかいもの、中間とある。硬い車輪はスライドすることができる。柔らかい車輪は騒音が小さい。
スケートボードのスケーティングにも色々なタイプがある。
プール/バートはスケーティングのオリジナル。昔は半円コースの上端に立つスペースは無かったが現在はある。
ストリートスケーティングは一般的に良く見られるスケーティング。堀米雄斗はチャンピオン、2度の金メダリスト。
フリースタイルスケーティングはそれほど飛ばず、クリエイティブな動作、ダンスのような動きをする。
クルージングは一般的な道路上を滑る。
ダウンヒル/ボミングはクレイジー。6月21日のゴースケーティングデイに、特にカリフォルニア州では観客に
囲まれた中で下り坂をフルスピードで走る。
1956年に最初に商品として販売されたHumco社のスケートボード。車輪は金属製。ラバーを備えたトラックが装備されて
いないので、体重移動で傾けて曲がることはできず直進のみ。
1963年にMAKAHA社が販売したスケートボード。車輪幅が太くなり、走行安定性が増した。車輪は金属ではなくClayという
複合材質でできたもの。
1969年にはボードにキックテールが設定された。ここを踏むことによりボードを上げることができ、技がやり易くなった。
1970年代にはウレタン製の車輪も登場。 Zephyr社から樹脂製のボードも登場。
車輪の回転を滑らかにするベアリングが登場。今ではこれが無い車輪は考えられない。
ゴムブッシュを備えたトラックも登場。これによりスケートボードの操縦性が向上し様々な技ができるようになった。
ボード上に貼るグリップテープはボードの上で靴が滑るのを防ぐ。7層構造のメープル板のボードも登場。
デッキ面は凹形状になってきた。 70年~80年台の各種プロモデルボード。
1970年台はスケートボードにとって大きな変化、改良の時代であった。
1930年代にローラースケートは現在のスケートボードで見られるような車輪軸を持つようになった。
サーファーはこれを取り外し、木製ボードに取り付けた。これはサイドウォークサーフィンと呼ばれた。
波が無い時にサーファーはサーフィンの代わりにこれを使用した。
1950年代にHumcoが最初の商品としてのスケートボードを販売した。3年後にはRoller Derbyも販売した。
金属製車輪でベアリングは使用されず。直進だけなので、石があるとぶつかり転倒の可能性あり。
1962年にVALサーフショップが最初のスケートボード販売店となった。1963年にはMakahaも。
かれらは1日に1万個のスケートボードを販売した。
Patty mcgeeが最初の女性チャンピオンとなり、LIFE and Skateboarderの表紙を飾った。
1969年にキックテールが発明された。
1970年代にはスケートボードにおいて多くの新技術が発明、採用された変革の時代。
Frankは最初のウレタン車輪を開発し、乗り心地の良さからキャデラックホイールと呼ばれた。
1976年には最初のメープルスケートボードデッキが造られた。
樹脂製ボード、ベアリング、トラック、グリップテープなども造られた。
カリフォルニア州には200万人のスケーターがおり、干ばつで空になったプールで子供達はスケートボードを楽しんだ。
スケートボードがポピュラーになると共にスケートボードを職業にする人も出現しペプシなどがスポンサーとなった。
1980年代にスケートボード雑誌Thrasherが発刊された。
バートスケーティングがポピュラーで多くの技、芸が作られた。
1990年代ストリートスケーティングが盛んになり、より技術的になり、そのため危険度も増した。
2000年台初めにトニー・ホークが活躍。トニー・ホークを題材にしたゲームは毎年発売された。
Thrasherはストリートスケーティングのオンライン販売の主役となった。
Xゲームがスケートボードの宣伝、普及拡大に貢献した。
スケートボードからもう少し安全なBMXやスノーボードに移っていく人も多かった。
ダラスさんが最も好きな3人のスケーター。
弱小またはローカルな企業がスポンサーであるT-Funk。彼はややダーティなヒッピーのようなイメージがある。
ストリートスケーティングだけでなく、フリースタイルスケーティングも行うハイブリッドスケーターである。
Andy Anderson はクリエイティブなフリースタイルスケーターであり、ストリートスケーターでもある。さらに
プールスケーターでもある。
Nyjah Hustonは大企業ナイキがスポンサー。パリオリンピックに出場し3位になった。多くのアメリカ人に
好かれ、クリーンなイメージがある。商業的にも成功したスケーターで多額の収入を得た。
講演ではさまざまなスケーティングの動画を見せていただきました。
スケートボード現物を使いながら熱心な説明をしていただきました。
また多くのQ&Aにも対応していただきました。一般的にはスケートボードは1,5~2,0万円程度ですが、ダラスさんの
ボードはオリジナルの部品も入っているため、4,0 ~4,5万円するそうです。
ダラスさんありがとうございました。
熱心に聞き入る参加者のみなさん。ご参加ありがとうございました。
(ホームページ担当 人材育成部会ボランティア 中野一男)
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